南阿蘇トレッキング(7)

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今日泊る五木村の宿は民宿ではあるが、少し変わっていて、食事は川を挟んだ向かいのところにあるお食事処で行う。ここは民主の主人が経営され、隣には温泉場もある。夕食前に温泉に入り、その後食事するのであるが、広い部屋には我々一組のみで、寂しいかぎりである。
我々が宿に帰るときには、少し前に帰った民宿のおばちゃんが、寝床を造ってくれてあった。
民宿のおばちゃんに五木のことを詳しく聞く。
五木村は子守唄で有名であるが、ダムのトラブルでも有名で、現在は附帯工事はほぼ完了に近づきつつあり、ダム本体工事だけはまだ全く着工されていない。理由は色々あると思われるが、水没という大きな犠牲を強いられる村としての反対表明をしているものの、時代背景やダム反対世論の社会的広がりの弱さ、国と県とによるダム受入の働きかけ、ダム受入を前提とした地域整備計画の提示、林業の衰退による過疎化や村の将来への懸念から、反対運動は徐々に条件付き賛成と呼ばれる立場にシフトしているそうである。
 
 
次に五木の子守唄であるが、
五木の子守唄は山村の厳しい暮らしの中から生まれ、長く唄いつがれてきたものであることだけは確かである。五木村では、戦後の農地改革まで、わずか33戸の地主以外は、ほとんどが山や土地を借り受け、細々と焼畑や林業を営んで暮らす「名子(なご)」と呼ばれる小作人たちであったとか。
名子たちの生活は厳しく、子供たちは7、8歳になると、食い扶ち減らしのために山を越えた八代や人吉方面に奉公に出されたそうで、それも奉公とは名ばかりで、「ご飯を食べさてもらうだけで給金はいらない」という約束だったとか。
下記の歌詞の中から、、その当時の子供心が伝わってきます。
左の写真をクリックすると音楽が流れます。

音楽画面は最小化して紀行文をみてください。
おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと
 盆が早よくりゃ早よもどる
(子守奉公も盆で年季が明け 恋しい父母がいる
   古里に帰れる日が待ち遠しい。)
おどま勧進 勧進 あん人達ゃよかし
 よかし よか帯 よか着物
(自分達は子守娘で、あの人達は旦那衆
 旦那衆は良い帯をして、良い着物を着ている )

おどんが打っ死( ち )んだちゅうて 
 だいが泣いてくりゅうか うらの松山蝉が鳴く
(遠く離れた所に子守奉公にきて私が死んでもだれも悲しまないただ蝉が鳴くだけでさびしい。)
おどんが打っ死( ち )んだら 住環( みち )ばちゃ埋( い )けろ通るひと毎( ご )ち 花あぐる
(私が死んでも墓参りなどしてくれないだろう それならば 人通りがある道端に埋葬してもらったほうが誰かが花でもあげてもらえるだろう。)
花はなんの花 ツンツン椿 水は天からもらい水
(あげてもらう花は何でもいいが 道端にたくさんある椿でよい 水がなくても雨が降ってくるから。)
おどんがお父っつあんは あん山( やみゃ )おらすおらすともえば いこごたる
(私の父は遠くに見えるあの山で仕事をしているだろう 又あの山の裾に古里があり早く帰りたい気持ちが増々 大きくなる。)
おどまいやいや 泣く子の守にゃ 泣くと言われて憎まれる (子守にとっては泣きやまぬ子はどうしようもなく どんなに あやしても泣きやまない 子守の仕方が悪いと叱られる。)
ねんねした子の 可愛さむぞさ おきて泣く子のつらにくさ
(子守背中ですぐ寝る子は 子守にとって楽であるが  いつまでも泣いて寝ない子は 普段は可愛いけれど 憎らしい。)
五木村の朝は山深いから遅い、8時ごろになってやつと朝日を見るこができる。朝食までには時間があるので、五木村を一周する。
五木村からの脱出は雨であれば、大回りして平坦地を走り、雨が降っていなかつたら、山越えしょうと決めていた。幸い雨は降ってないので、走りにくい山越えをして走り出した。
途中、吊橋と滝があるので、寄り道する。吊橋は珍しく舗装されている。吊橋の下方には昔使われていた吊橋が見える。
吊橋より少し進むと、規模は小さいが綺麗な滝があつた。秘境と呼ばれる山奥では、吊橋と滝しかない。

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